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【高嶺の花】10話最終回感想:最後まで峯田和伸の人間くささが目立っていた感

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Nullumayulife | Flickr

 

いやー、最終回でどんでん返しかと思えば、まさかのハッピーエンド。くっさいセリフも多かったのにどういうわけか泣けて泣けて仕方がなかったですね。野島さん作品にみられる“どんなに荒んだ人でもコアな部分は純粋である“ことを極限までに表現していて、ももの気づきと選択が今までの作品や時代の流れも含めて「昇華したもの」のように思えて感極まった、そんな感じ。格式や運命、自己犠牲で破滅するのではなく、それらを超えて幸せを選ぶ結末。野島さん作品は破滅終了のイメージが強いですけど、「101回目のプロポーズ」なんかもハッピーエンドだったのだから、今回の作品では破滅とみせかけて一途で純粋な愛で終了路線だったってことで。

  

以下、ネタバレが含まれます。観ていない方はご注意ください。

 

 

 

 

据え膳食わないプーさん

前回からの続き、香里奈のハニートラップ、プーさんやっぱりひっかからなかったか。でも、仕掛けている最中を電話でももに聞かせている悪趣味な役柄が香里奈にぴったり。ここでプーさんが引っかかったら物語は終わってしまうので、それはないかなと思ったけど、引っかからない理由もいちいち語らせるあたりあざといわ。非モテ男の言い訳にも聞こえたわね。据え膳食わぬは男の恥とか、女性が自分から差し出したのに恥をかかせるという見方もあるけど、据え膳を食わない理由をしっかり語り、女性側も納得するのならあのシチュエーションでは恥ずかしさは消え、むしろ食べない男の態度に惚れる場面ではある。据え膳はなんでも食べればいいってもんじゃないし(袴田吉彦あたりなら据え膳オールオッケーなんだろうけど)。

プーさんは哲学を持った男として(ルックスは別として)かっこよく描かれてたけど、単に女慣れしていなくて勇気がないあの感じ、中二病のまま大人になった感が峯田和伸に合いすぎる。かっこつけていても心の中では「ヤリたい」と銀杏BOYZならそんな風に歌いそうなのにね。

プーさんとももが別れる長回しシーン、愛するももに会えることがうれしくてうれしくてしょうがない気持ちを隠さず駆け寄るぷーさんが、別れを切り出されてからの焦り、崩れ落ちるまでの切なさったら! どんなにももに翻弄されても、ハニートラップにかけられても一途にももが好きで思い続けるプーさんが切なすぎるのよ。なんか、プーさんの役柄以上に峯田和伸からにじみ出ている(と感じる)大人になりきれないような質がそう思わせる。ももが振り切ってもすがりつこうとするかっこ悪さ、アラフォーのいい大人ならスマートに対処しそうなものを、あんなにみっともなくジタバタする姿が愛の深さを表現していた気がする。だから峯田和伸キャスティングだったのかと。ああ、年齢だけは大人だけど、大人ぶってスマートになんかできない。別れるのがイヤで駄々こねたいんだよ。それが峯田和伸なんだよ。

 

ももが言った「一人で立てないもの同士は共依存。一人で立てるようになりたい」と、いきなりこの境地に至った経緯がすぐにはわからなかったんですよね。家元になれなかったとかもう一人の自分が消えたとか、家元の実子ではないとか華道家としての自分が揺らいで、兵馬様と寝ることで華道家の自分を取り戻そうとした。いろいろなことが重なって”失神“したときに精神的にバーンアウトしたのかな。ももにとって、いろんなことがあってこその究極な昇華だったのだろうと思う。絶望も極めてしまえば昇華するもの。苦しいことも辛いことも極めつくせば新しい道が見えてくる。華道家として自立すること=誰かに依存しない生き方としての自立、という風な見方をしてみました。ももとしては、自立をするためにプーさんという安住の地を捨てて退路をたちたかったのか。
別れのお弁当を広げて泣きながら「まだ何かしてあげたい」というプーさん。愛が深すぎて重いといえば重いけれど、そこまで深く愛されたらうれしいと思うのは女性共通じゃないかしら。そんなことを男性に言わせることができたら女として本望といってもいいわ。

 

 

「私はお花」

ももの母親の才能 奇抜な生け方をするために家元から嫌がられ、夫のために華道をやめた。それはさも美談のように「愛していたからやめた」のだと使用人の金さん銀さんに語られるけど、家元も嫉妬する空蝉でもない「私はお花」という生け方(生き方)はなんなのか。これがこの物語の主題じゃないかと思いました。

「その思いをまっすぐに極限までまっすぐに昇華させればいい」

 それは華道家としてのもも、ももを一途に思うプーさん、引きこもり少年の日本一周自転車旅、龍一の野心、ななの龍一を思う一途さ、夫と5年も口をきかない妻、コスプレ少女らも、そういう意味では「思いをまっすぐに昇華させる」人々であって、それぞれがそこで咲かせればいい・・・ってSMAPの「世界にひとつだけの花」みたいなことか。

だからって、ももとななが「私たちはお花」で抱き合うシーンはかなりクサくてみているこっちが恥ずかしくなった。あれはないだろ。

ももが新しい流派を作る展開、自分の足で立つとはそういうことだったのね。華道家としての自身と取り戻すだけでなく、愛する人を携えながら格式に囚われない新しい華道家として自立すること。そのことで、戸籍上月島だけれども本当の親ではない市松からの自立と同時に、新しい流派を作ることで月島ではなくなる。それが亡くなった母親の嫉妬されるほどの才能でもあるのだし、本当の父親でもある運転手の高井に報いることになるなんて、ちょっとここは深かったなぁ。ももが「私はお花」に気づいて、純粋に花を愛で極限までにまっすぐに昇華させた。もう空蝉だなんだと気にならなくなっていたんだろうね。

ももが伝統や格式、孤高であることに囚われず脱皮していくような美しい俎上シーン。華道の見方とか素人でわからないけど、美しい生け花と空間演出に感動を覚えましたよ。ももが生けた花は華やかさと一途さをみごとに表現していたと思うし、その後の市松とるり子のシーンで二人の間にたたずんでいた真っ赤な生け花も、和解した二人を象徴するかのような茎のクロス具合がまたシーンにぴったり。華道ってすごい。

 

※公式サイトにも劇中で使われた生け花ギャラリーがあります。

www.ntv.co.jp

 

※せっかく美しい生け花なのにスマホでちゃっちゃと撮影しただけ感のある光加減やピンぼけがあってすっごく残念。せっかく美しいのにぃ。美しいモノは美しく撮ってほしかったわー

 

 

最後に

全体的にグッとくる場面も多く、感動したけれど、最後の方のシーンはやけにみんな丸く収まってしまい(引きこもり少年が拍手で迎えられるアレとか)、あまりにもできすぎな気がして逆に冷静になってしまった。芝生の公園でお花教室、きれいすぎてさ、まるで洗剤のCMかと思ってしまったじゃない。商店街の公民館か自転車屋の二階ってわけにはいかないのね。


最後のシーンのおかげで我に返ってしまったので、感動と同時に毒を吐きたくなった。

メンヘラ女性の成長と自立をメインに置きつつ、一途だけど冴えない男が高嶺の花である美女に翻弄されながらも幸せを手に入れるっていう男側の願望を描いたドラマのようにもみえたのよね。周りに仲間が都合よく助けてくれたりしてさ。

設定が「101回目のプロポーズ」と似ているなとも思いましたよね。美女と野獣まんま。プーさんは武田鉄矢ばりのあきらめの悪さ全開。この「一途な愛」設定は基本なんですかね。死んだ彼氏が忘れられずにいる浅野温子を一途に思い(執拗につきまとい)まるごと愛そうとする設定とほぼほぼ同じ。

とはいうものの、相手がメンヘラでも美人なももだからこそっていうのはあると思うのよね。ブスなメンヘラ相手じゃいくらプーさんでも一途にならないんじゃないの?という疑問は否めない。ももだからこそ一途になったようにも見える。自分はモテなくてもやっぱり美人が好きってことなんじゃんねぇ。

最後までプーさんは「俺なんかモテない」と自虐的になっている態度でイラッときたのよ。モテないから一途なんですかあ?と言いたくなる。決してイケメンとは言えない武田鉄矢や峯田和伸ルックスの男性でも、一途に思い続ければ道が開けるというなにかの教えを広めたいんですかね? 一途に思うのはいいけれど、イケてない自分はそのままでいい感じがちょっと鼻につくわ。プーさん、最後までヨレヨレシャツだったしさ。

ももとプーさんは元々が格差ありまくりなわけで、その後の結婚生活大丈夫なの?と疑問しか湧かない。しかも使用人の金さん銀さん連れて来ちゃって、月島家の援助受ける気満々じゃないの? この時点で経済的意識の格差でてる。金さん銀さんが寝たきりにでもなったらプーさんが面倒みそう・・・そこまで想像してしまった。

 

なんでかんで毒吐きつつも、最後まで生け花はもちろんのこと、ロケーションや空間、音楽の演出が素晴らしいドラマでした。いいセリフがちょいちょいあるので、もう一回最初から見直したい。

 

石原さとみちゃん、「アンナチュラル」で抑え気味の演技がよかっただけに、感情の振り幅が激しいメンヘラ役に期待していたんだけど、あれはたぶんセリフがあまりにも一昔前の下品さと「はすっぱ」感がありすぎて、せっかくのさとみちゃん演技を台無しにしてしまった気がする。すごーーーーく残念。キャバ嬢で酔っ払っているシーンとか仲間内で話すシーンがくだけすぎ。演出なのかはたまたさとみちゃんの演技がアレなのか・・・。

 


ネットでは、野島さんなのにやれ誰も死んでいないとか(私もそれは思ったけど)、伏線回収されていないとか騒いでいる方がいたようですが、そう思ったシーンは単なる設定てことでそこは想像力働かせておわりでもいいのでは?と思います。観る側が伏線と勝手に思っただけかもしれないし、もしかしたら本当に伏線なのに作りが甘かっただけかもしれない。

気持ちもわかりますよ。野木さん脚本の「アンナチュラル」みたいに見事なまでの伏線回収されたスッキリ感を体験してしまうと、そういうのが当たり前に見えますしね。野木さんは時代をリサーチしてきっちり作り込んでいる方だと思いますし(そんなところが大好きです)。今作「高嶺の花」の野島さんや「半分、青い」の北川さんもきっと一番感度の良かった90年代は時代にあっていたからあれだけヒット作を連発していた。それが時代の流れとご本人の加齢などによる体力・思考の衰えでどうしても「感度」が変わるんだと思うんです。私もそうですけど、50代になるとどうしたって20代〜30代の鋭敏な感度ではなくなるので、細かな配慮や伏線回収は意図せず大雑把、なんてことは往々にしてあるんじゃないでしょうかね。どうしても作品を作る側の世代のズレは出てくるんだなということが「高嶺の花」「半分、青い」で見せられた気がします。50代以降は現代劇じゃなくて、中園ミホさんみたいに時代劇か医療モノにシフトするか、遊川さん、森下さんみたいに現代劇でも設定を思いっきりありえない設定に振り切るとか。

いずれにしてもいろんな意味・視点で楽しませてもらった「高嶺の花」でした。本当にスタッフの皆様お疲れ様でした。

 

次の同じ枠のドラマが、待ちに待った野木亜紀子さん脚本「獣になれない私たち」、超超期待しちゃう。野木さんの描く女性はリアリティがあるので共感必至だろうな。